ゲーテとゆー名の雑誌が幻冬舎から出ていて、見出しだけみても買いたくなってしまうくらい魅力的だ。でも買わないんだけどね。その代表者、見城徹は私が評価するまでもなく、名うての編集者として日本の出版業界に睨みをきかせている。かつて角川春樹が出版業界でやろうとしてやれなかったことを、今やっているのが見城氏であろう。彼の試みはいくつかあって枚挙にいとまがないが、今回私が取り上げようとしてる案件は見城氏によるミシュラン日本版の、こき下ろしについてである。
1983年、日本大学法学部を最低の成績で卒業した私は証券業界に入った。気が付いた時には高級レストランで資産家の令嬢とフレンチを食ったり、ホテルのバーや老舗の鮨屋の常連になっていた。電通の社員と飲み歩いたり、お客様の経営する銀座のクラブで金を1円も出さずに飲ませてもらったり、そんな生活が10年ほど続く過程で、私の舌も少しずつ賢くなっていった。
当時、山本益博と見田盛夫が共著で「グルマン」とゆーレストランガイドを毎年書いていた。数年後、袂を別ってしまった2人ではあったが、この本を起点に私はフレンチの食べ歩きを始めたから、感謝はしてるのよ。いつだったか友人の住友博昭クンに誘われて行ったレセプション会場で山本益博さんと私は実際に喋ったことがある。個人的にはいい人だと思うんだけどなぁ。その益博氏を見城氏はバカ扱いしてるわけだ。理由は益博氏がお店から特別利益の提供を受け、えこひいきするからフェアじゃないってことのようだ。そのへんは、最近、よく出てくる友里征耶なる人物と益博氏の決定的な違いであろうと思う。
そもそも、レストランガイドとは誰のためにあるのだろうか?
本来は、食べ手をミスリードしないための道標のよーなものであるべきなのに、単なるお店の宣伝広告に成り下がってしまっていたり、料理評論家と称する人たちの生活基盤を下支えするためだけのツールとして機能してるだけだったり、出版社サイドの単なるルーチンワークの一環だったりするのではありますまいか?
なので、特定の人物や団体との癒着の果実として星3つを献上したり、春夏秋冬、少なくとも年4回のリサーチが必要な業態にも拘わらず、たった1回か2回の会食で採点してしまうこと自体に無理があると考える。
料理の鉄人の石鍋さんの店は美味しかったけど、三国清三は最悪で、コートドールの斉須政雄さんは素晴らしく、レストランひらまつは高単価なだけとか、私個人は、ちょっとした印象や固定観念や好き嫌いから簡単に間違った判断を下してしまうからいい加減なものだ。あてにならない。
ついでだから書くけど、私が実際に喋ったりその人が最終チェックをして私の口に入った料理をつくったシェフを挙げると、結果、キラ星の如くスターが並ぶ。
帝国ホテルの故、村上専務。現、レ・セゾンのテュエリー・ポワゾン。アラン・シャペルの弟子、上柿元勝、北島亭の北島素幸。横田知義、ステファン・ランボー、井上旭、高橋徳男、城悦男、ジョエル・ブリュアン、小野正吉など。今、想い出しても、夢のよーな光景が目の奥で像を結ぶ。鮮明にだ。
ところで、どんなに腕のいい料理人がベストの状態でジビエなどの食材に腕をふるったとしても、普段食べつけてないものを出されたビギナーは、その料理をおいしいと感じることはないだろう。その日の体調もさることながら、まずもって食べ手に引き出しが多くなければ完全に逆効果になる。いきなり、蝦夷鹿や野ウサギやホロホロ鳥が皿に並んでも、その旨みを味わうには修練が必要だ。
そして何よりもホテルの広い厨房で流れ作業とゆーか、分業で出す料理と、1人が丁寧に仕込みから作る料理を同じ土俵で戦わせてはいけないように感じる。
話がどんどんそれて行って、脈絡がなくなってしまうので、元に戻すと、ミシュラン日本版は嘘だらけなので買うなってことが言いたいわけだな、見城さんは。
権威であるとか、虚飾であるとか、贋物を彼は嫌うってことだ。あと、簡単に信じるなよとゆー彼の警鐘には一理も二理もあるので、今後とも、彼のアンチテーゼは、まことしやかな箴言として、耳をダンボに膨らませて拝聴したいと考えている。
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