2012年5月24日木曜日

日韓併合。

1909年、昔の1000円札でお馴染みの伊藤博文が安重根にハルピン駅で暗殺されたからなのかどうかは解らないが、1910年8月22日に「韓国併合に関する条約」が日韓両国の間で締結され、総督府が設置された。以後の36年間、韓国・北朝鮮は日本の領土となった。このことが三国間の蟠りになっている事実は否めないものの、実際に日本が韓国・北朝鮮を侵略していたのかどーか、そして包括的な見地から俗に言う日韓併合が本当に正しかったのかどーかについて一考察を試みたい。 例えばイギリスがアフリカ諸国やインドに対して行った植民地化政策との比較において、よく言われることだが、日本が韓国・北朝鮮に対して行使したのは同化政策あるいは教化政策であり、その範疇で統治していたとゆー意見に私は賛成の立場を採っている。植民地政策は宗主国の思いのままに植民地から略奪の限りを尽くすとゆーもので、後には何も残らないのが普通である。それに対し、日本が韓国・北朝鮮に対して36年間をかけてやったことは、李朝支配の500年間で腐敗した同国を結果的に立て直す役割を担ったとゆー見解を私は支持している。事実、1777年に韓国・北朝鮮の総人口は1804万人であったが、日韓併合時の1910年には1313万人と約500万人も人口が減少していたとゆーデータがある。実際、飢えと寒さのためだけではなく、お上の無策に拠るところが大きかったのだと思う。 当時、朝鮮半島全体を治めた日本は歳入の3分の2を本土からの持ち出しで賄っていた。そして、1910年から1944年までに日本政府が発行した公債は21億6566万円であり、そのうち償還された7億2595万円を差し引いた14億3971万円が未償還額で、それに立替金その他の直接支出と補充金を合計すると、総額で20億7792万円とゆー数字が出てくる。 いろんな説があるだろうが、仮に戦前の1円が現在の1万円に相当するとしよう。計算すると、日本は20兆7792億円とゆー莫大な金額を韓国・北朝鮮に投資していたことになる。この血税で鉄道・道路・橋梁・工場・学校などが建設されたことは紛れもない事実なのだ。結果、実際に搾取されたのは、日本国民の税金だとゆーことだ。因みに、このことを指摘する向きは極めて少数派であることを記しておきたい。 各論に移るが、学校を例にとって言えば、1906年の伊藤博文統監就任時に50校程度しかなかった当地のそれが、1943年には義務教育の普及に伴って、その数は5000校に及んだとゆー確かな記録があるので、学校の数が30年余りの間に100倍になっていることは間違いない。これは本当の話である。 北と南に分れ民族が分断している現在の半島だが、北は、ご存知の通り、旧李朝時代に時計の針を巻き戻した感がある。南は日韓併合時の教訓「働かざる者、食うべからず」のエッセンスを見事に租借した結果、近代国家に発展して今がある。その証左は私のスマートフォンがサムソン電子のそれであることからも明白だ。 日韓併合。このテーマは大き過ぎて私のブログで取り上げるのは、無理があるのかもしれないけれど、私の知っている範囲で書いてみました。以上。

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