2009年4月25日土曜日

Lee Morgan.


御大の登場です。私の永遠のアイドルは郷ひろみではなく、リー・モーガン。この「Vol.3」とゆーアルバムの3曲目の「I remember Clifford」を彼と同じよーに吹くことを人生の最終目標にしてるよ。不世出の天才といわれたジャズトランペッター、クリフォード・ブラウンが自動車事故により25歳でこの世を去った後、彼のためにベニー・ゴルソンが書いた美しいバラードがそれ。当時18歳だったリー・モーガンの音色は既に完成されていて、分厚い唇にバックの12Cという、カップが小さく深いマウスピースの選択が素晴らしいのは当たり前で、ジャズトランペッターとしての資質に恵まれ過ぎていたのが悲劇の始まりだったのかもしれない。早熟の天才がミュージックシーンの頂点に立ったのは当然の帰結で、マイルス・デイビスより12歳若い彼は奔放かつファンキーに吹きまくりわが世の春を謳歌した。来日もし、アート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーズのメンバーとして神戸国際会館とゆーホールで、乳児だった私は幸いにもその生音を聴いているらしい。今は東京都八柱霊園に眠る母はつ子が生前そう言ってたから、多分そーなんだと思う。リー・モーガンはその後の華々しい活躍も束の間、人気を過信し、酒、女、麻薬とお決まりの奈落の底に堕ちて行く。そして、1972年2月18日、ニューヨークのクラブ「スラッグス」に出演中、夫人に射殺されて非業の死を遂げる。33歳の若さであった。その49日後、私は神戸市立垂水中学校吹奏楽部に入部する。だからってどうってことはないけれど、無理やりでも話を繋げてもいーでしょ。最初はテニス部に入ろうと思っていたにも拘わらず、リー・モーガンの魂に吸い寄せられるよーに部のメンバーになってしまっていた。高校では一般のバンドに入り、大学ではひたすらジャズ喫茶に入り浸った。当時、神保町に「コンボ」とゆー、伝説のジャズ喫茶があり、マスターの伊藤さんに薦められて初めて聴いたのがこの、「Vol.3」。このアルバムを聴くたびに、大学の研究室にいて、弁理士試験を目指して勉強してたころのホロ苦い想い出がカラー映像で浮かび上がってくる。
この中の名曲「I remember Clifford」とは私が老人になっても付き合っていくつもりであるし、あと40年ぐらいしてお別れの会をホテルオークラでやってもらう際、しめやかに流してもらいたいと思ってるよー。

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