2010年8月22日日曜日

王昭君。


私の父親の妹(大阪のオバチャンと呼んでいる)が嫁いだペンキ屋が大阪でもかなりアッパークラスの生活をしており、横山大観の絵を買って部屋で眺めているらしい。確かに、この大阪のオバチャンから32年前、入学祝だと言って100万円を手渡され、まだ高校を卒業したばかりの私は多少、ビビリながら札束を神戸の実家に持ち帰り、母親に全額手渡した記憶があるくらいだから、この家がメジャーな美術品を所有してても不思議でない。
ところで、横山大観の東京美術学校(今の東京芸大)時代の1年後輩に、37歳で逝った天才画家、菱田春草がいる。菱田春草の没後、大観は自分よりも、春草のほうが画家として上であったと認めているのは有名な話だ。「王昭君」は「黒き猫」、「落葉」とともに、春草の代表作の1つとなっている。
ところで、この作品のモチーフである李白の漢詩「王昭君」をご存知だろうか?
後漢の元帝とゆー名の皇帝の時代、後宮3000人の美女の中に王昭君は居た。皇帝がセックスしたくなった時に、いちいちその女の大群の中に入って品定めをしていたら、もうどーでもよくなってしまうので、女性の絵を見て、その日の相手を指名するシステムが確立していたようだ。なので、彼の寵愛を受け、妊娠して一族郎党の繁栄を願う彼女たちは、似顔絵師に金を握らせ、少しでも美人に描いてもらうことに躍起になっていた。しかし、王昭君は毛延寿とゆー似顔絵師に自分の肖像画を書いてもらうことになった際、賄賂を要求され「お断りします。ありのままを描いてください」と言ったようなのだ。
毛延寿は「調子乗ってんじゃねーよ!」とは言わずに、黙って醜い女の絵を描いてしまった。
ある時、匈奴の王が後漢に「女ちょうだいよー、くれないんなら馬に乗って君らを攻撃するかもよーっ」と要求してきた。例によって元帝は絵を集め、しばし考えた。
「あんな野蛮な奴らに渡すには、1番不細工な女で丁度いいんだ(ガンガンハオ)」。そうして、夥しい数の絵の中から、最も醜い王昭君をチョイスした後、「しかしなぁー、何でこんな不細工な女がおれのとこに、いたんだろう?ま、今回、処分できたから一石二鳥だわ」と元帝は呟いた(ツイッター)。
数日後、王昭君が匈奴の住む北方の地に旅立つの日の朝、元帝は確認のため、初めて王昭君の素顔を見た。「えーっ、うっそー、こんな綺麗な女、マジ勿体無い勿体無い」と元帝。とはゆーものの、彼はコンプライアンスを重視するタイプだったので、ルール通りに醜い絵の女「王昭君」を匈奴の地に行かせた。そのデパーチャーの光景を描いたのが菱田春草。まわりくどかったかしら。
後世において中国四大美女と呼ばれることになるほどの王昭君を手放さざるを得なくなった後悔から、元帝は似顔絵氏のうち、賄賂をもらっていた者を全て即刻、死刑にしたという。
「そー言えば、絵と別人みたいな女が、結構、いたもんなー、くそっー、騙しやがって!」と元帝が吐き捨てたのは当然の帰結。一方、匈奴の王は、美人で、聡明で、教養も気品もある王昭君をいたく気に入り、その後しばらくは、後漢に攻め込むことも、金品を要求することもなかったようだ。勿論、女も…。
ここから先は私の脚色なので悪しからず。
最初は匈奴の王のことが嫌いで、股を開きながら泣いていた王昭君だったが、暫くして、この王のことをだんだんと好きになってきた。多少臭いのを我慢すれば、この王の男としてのポテンシャルの高さは頼もしい限りで、旺盛なバイタリティーは尊敬に値し、夜は自分の虜になって少年のような純粋さで自分のことを愛してくれる喜びも手伝って、この日常が幸せ気分夢気分になっていく自分に高揚感を覚えるまでになっていった。子宝にも恵まれ、この国の言葉も流暢に喋れるようになり、以前よりもコミュニケーションスキルが上がっていくのに比例して、宮廷内での彼女の政治力は日増しに強くなった。
「もし、毛延寿に賄賂を渡していたら、今の私の成功は無かったのではないか?」。王昭君は自問した。
「あのまま、後宮にいて、もし仮に元帝に接することができたとしても、今のよーに、毎日、大切にされ続けるってのは無理なんじゃないかしら…」とか、「後宮を去る日、後ろの列でヒソヒソ話をしていた彼女たち…。今はどうしてるんでしょうか?」とか…。
結局、王昭君は悲劇のヒロインではなく、至極幸福な人生を歩んだと思うのだが、真実は如何に?

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