2010年12月23日木曜日

長崎ぶらぶら節。


なかにし礼が好きである。黒沢年男の「時には娼婦のように」の「ばかばかしい人生より、ばかばかしいひとときがうれしい」の詩は私の座右の銘といってもいいくらいに、頭の中の、かなり目立つ場所で陣取っている。
脱線がてら、氏の作詞による楽曲を羅列してみる。朝丘雪路「雨がやんだら」、アン・ルイス「グッド・バイ・マイラブ」、いしだあゆみ「あなたならどうする」、奥村チヨ「恋の奴隷」「恋泥棒」「恋狂い」、北島三郎「まつり」、北原ミレイ「石狩挽歌」、キャンディーズ「哀愁のシンフォニー」、小柳ルミ子「冬の駅」、島倉千代子「愛のさざなみ」、島津ゆたか「ホテル」、菅原洋一「知りたくないの」、鶴岡雅義と東京ロマンチカ「君は心の妻だから」、ザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」、ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」、ハイ・ファイ・セット「フィーリング」、ピーター「夜と朝のあいだに」、ザ・ピーナッツ「恋のフーガ」、弘田三枝子「人形の家」、ペドロ&カプリシャス「別れの朝」、細川たかし「心のこり」「北酒場」、黛ジュン「天使の誘惑」、森進一「港町ブルース」、由紀さおり「手紙」などなど…。
若い人には些か、古めかしい楽曲たちだが、それぞれのストーリーが浮かんできそうな作品ばかりで、頼もしい感じがする。その、作詞家なかにし礼が文壇に打って出、10年ほど前に第122回直木賞を受賞した。その該当作が「長崎ぶらぶら節」である。阿久悠が超えようと思って超えられなかった高い壁、それが、なかにし礼だったのだと思うが、その答えはこの小説の中に、鮮烈かつ原色で刷り込まれている。当代きっての、ひらがなの使い手は同じ直木賞作家の江国香織だが、それにも増して、なかにし礼のひらがなの使い方は知能犯的に巧妙である。安易な言葉をいとも簡単に操って、やわらかな風合いの叙情的な物語として、かるがるとゆるゆると綴っており、その意外なスピード感は読み手を幻惑かつ翻弄しつつ、揺りカゴに乗せたまま、一気に最後まで持っていってしまう。
芸の細かさに舌を巻いた。この小説の文章には、そんな魔法が内包されている。
ストーリーは長崎の花街・丸山にいた愛八とゆー名の芸者が、放蕩の風俗研究者古賀と、忘れられた地元の名曲を探して歩く旨の内容である。
序章と終章は雪千代とゆー、愛八が生涯をかけて救った愛弟子の芸者が回想シーンとして長崎弁で語り、その2つが餃子の薄い皮のよーに、しっかりと「あん」を挟み込む格好だ。65年前の話を85歳に老いた雪千代が喋るスタイルは、昔、観た映画「タイタニック」を彷彿とさせる。話は、愛八の古賀への恋心がフィジカル面では成就しなかったものの、愛八の葬儀当日の、古賀の弔辞によってメンタル的には結実・昇華したのではないかと思われる。著者は、恋とか情念とかエクスタシー、つまり直截的な男女間のやり取りを読者に判らせようとしたのではなく、畢竟、歌の持つ魔力、呪術性、はかなさ、力強さを知り尽くした著者の、歌とゆーものに対する未来永劫に渡るまことしやかなメッセージを、愛八と古賀の身体を借りて語らせたかったのではないか。そして、主人公の愛八は他ならぬ、なかにし礼自身ではなかったのかと私は思う。
「歌は人間の一念が巻き起こす稲妻たい」。この一行に集約されたエッセンスは、私に自然発露的な同意を促した。
この本を読み終えた私が、不覚にも泣いてしまったことは当然の帰結であろう。漠として長らく読みたいと想いながらも、何故かしら機会に恵まれず、読みあぐねていた作品が、予想を遥かに凌駕した珠玉の名作だと知った時、なんとも切ない達成感で胸が一杯になってしまったのだ。
才能の力とゆーものは、人の心を瞬時に虜にしてしまうものである。ともあれ、「長崎ぶらぶら節」は、人間愛を描いた稀有の小説であり、究極のところ、そのタイトルを「長崎ラブラブ節」に変更しても決して変ではない、と私は思っている。

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